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ムガル帝国の第2代君主フマーユーン (Nasiruddin Humayun) の子で、父がパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍シェール・シャーに北インドの帝位を追われて流浪している時代に西インドのシンド地方で生まれた。誕生名:Badruddin Mohammed Akbar(Badruddin:満月、満月の夜に誕生したため。Akbar:母方祖父の名前 Shaikh Ali Akbar Jami にちなむ)。
やがてサファヴィー朝の支援を受けて1555年にインドを再征服したフマーユーンが再即位の翌年に事故死すると、13歳の若さでアクバルが即位した。即位の当初はシェール・シャーの開いたスール朝などのムガル帝国に敵対する勢力がデリーの近辺にも残り活発な活動を行っていたが、父の残した重臣バイラム・ハーンに支えられたアクバルは同年11月5日にデリー郊外でヒンドゥー教徒の軍隊を破り、フマーユーンの再建した王朝を安定させることに成功した。
アクバルは成人するとバイラム・ハーンや自身の乳母の一族を打倒して自らの権力を確立、ペルシア人などさまざまな出自から自身の信頼できる人材を登用して権力と軍事力を高め、自らムガル帝国の勢力の拡大に乗り出した。アンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合・平定して傘下に加えて中央アジア伝統の部族制に支えられた軍隊から土着のヒンドゥー教徒を含めた新しい軍隊を作り上げ、この軍事力を背景に30代の頃までにインド北部の大部分を併合して大版図を実現した。
こうして広大な版図に多くの非イスラム教徒を抱えるようになった帝国を支えるため、アクバルはムガル帝国の制度の確立に乗り出し、イスラム法上異教徒に対して課されていたジズヤ(人頭税)を廃止するなど税制を改革し、軍人や官僚に、平時から準備していることを義務付けた兵馬の数に応じた位階(マンサブ)を与えて官僚機構を序列化するとともに安定した軍事力を確保するマンサブダーリー制を導入した。1579年よりこのような一連の改革に反対する動きから大規模な反乱が起こるが、数年でこれが鎮圧されると、ムガル帝国の支配はかえって安定に向かっていった。
ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル(Jalāl al-Dīn Muhammad Akbar, 1542年11月23日 - 1605年10月13日)は、ムガル帝国の第3代君主(在位1556年 - 1605年)。アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央アジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させ、アクバル大帝(Akbar the Great) とも呼ばれる。